M-1を見て

今年のM-1は今までで最もレベルが高かった。
腹を抱えて笑った。
笑い転げた。
今、日本で一番おもしろいコンビを決める。そんなことが年末の恒例になったこと、そしてそれを全国民が楽しみにしていること。
全てが、素晴らしい。
素晴らしい。ほんとに。心から、芸人という人種をかっこいいと思う。


しかし。
しかしだ。
今年のM-1において、漫才はある種、完全な袋工事に陥ったのではないか。
そのような疑念が浮かんだ人も多いのではないだろうか。
つまり、ブラックマヨネーズは、果たして本当に今、一番おもしろいコンビなのだろうか、ということ。
要するに、「漫才がうまい芸人」と「おもしろい芸人」というのは必ずしも=では結べなくなっているのではないか、という話。


僕は、別にここでブラックマヨネーズがおもしろくないということを言いたいのではない。
間違いなく、今年のM-1ではブラマヨが一番おもしろかった。

だが、ブラマヨが、じゃあ、ポストダウンタウンになれるか、というとそれは別問題のように思うのである。


そもそも、芸人道おいてゴールがどこか、というのは外野が決める問題ではない。
だから、ブラマヨダウンタウンになれるかどうかなど、関係ないという意見はあるだろう。
だが、あえて考えてみてほしい。
M-1の存在意義を。


結局のところ、僕らがM-1に何を期待していたかと言えば、ヒーローの登場を期待している
のである。
そうでなければ、「一番おもしろいコンビ」をわざわざ、あんなガチンコで決める必要はないのだ。
年末の漫才大会でよいのだ。
みんなで楽しくわっはっは。それでよいはずなのだ。

しかし、そうではなくて、僕らは、芸人がガチンコで勝負する、ということをものすごく楽しんでいる。
まるで格闘技を見るように。
それはつまり、一番強い人間を見たいという心理とおなじだ。
要するに僕らは、お笑いのヒーローを待ち望んでいるのである。


そして今、お笑いにおいて、次のヒーローと言えば、ダウンタウンを凌駕する存在以外にあり得ない。
かつて、ダウンタウン登場において、紳助竜介がきっぱりと引退したように、ダウンタウンを越えた次代の出現というのが、僕らが見たい、最高のストーリーのはずだ。
審査員に紳助と松本が入っているのも、その証明になるだろう。
すでに時代は、紳助、松本、の次の席を用意しているのだ。


さて、改めて今年のM-1である。
今年、決勝に残った3組には、三者ともに共通するネタの作り方が二つある。


一つは、勢いのもっていきかた。
前半、軽いボケを重ねていき、徐々にエンジンをあたためていき最終的に勢いにまかせたボケを連発するというパターン。
審査員の一人、ラサール石井がよく「後半の流れが・・・」とか「さいごあと一歩の伸びが欲しかった」などのコメントをすることからも伺えるように、この流れにのれるかどうかが、一つの審査基準になっている感がある。


もう一つは、つっこみとボケの境目が曖昧になること。
要するに、前半はそれなりにちゃんとつっこんでいたのが、後半になればなるほど、つっこみ自体がボケとなっていくというパターンである。
これは、一つ目のパターンと密接に関係している。
要するに、5分という限られた時間の中で、笑いの数を増やそうと思ったら、ぼけ→つっこみ→ぼけ→つっこみよりも、ぼけ→ぼけ→ぼけ→ぼけの方がはるかに笑いがとれるわけで、後半をそういう形にすることで、審査員の印象点をあげるわけだ。


今年、これがもっともうまくはまったのがブラックマヨネーズだった。
すべてのボケとつっこみが有機的に反応していた。


それに対して、このパターンを読んでいながら(あるいは読み過ぎたから)うまく対応しきれなかったのが麒麟である。
要するに、後半、勢いにのらなければならない、という足かせに無理矢理対応したのが、決勝で見せたあの「勢い」ネタなわけだ。


あの麒麟は痛々しかった。
なぜなら、麒麟はもともと、そのパターンを得意としていたわけではないからだ。
麒麟は本来的には「クールなボケ、川島」と「天然のつっこみ田村」という役割分担になっている。
世間一般ではボケ=天然、つっこみ=クールの方がすわりがいい。
それを逆手にとって後半、いつの間にかボケとつっこみが入れ替わってくる、というのが麒麟の得意パターンだったのだ。
それをあえて、M-1用にチューンナップして、ボケにボケで対応できるようにしたのが、あの決勝における悪口の言い合いというネタだったのではないかと思う。
だが、それは本来の麒麟にとってのベストなネタの作り方ではなかったはずだ。
M-1においては、その、本来の麒麟のパターンでは通用しなかった。
それがわかっていたからこそ、麒麟は従来の、最も得意とするパターンを崩して、勢いにのって両者がぼけるというパターンを作ってきたのだ。
結果、それは報われなかったわけだが・・・

M-1という舞台においては今年ならブラマヨの、あのどんどんヒートアップしていく漫才がベストなのである。
なぜなら、M-1においては、ああいった、笑いの流れのあるパターンの漫才こそがおもしろいとされるのだから。
いつのまにかそういうコンセンサスが出来上がったのである。
この、M-1が始まってからの5年の間に。


何が言いたいか。


結論を言うと、「おもしろいコンビ」を決めるためにつくられたM-1が行ったことは、結果的には、「おもしろいコンビ」を決めるのではなく「おもしろい漫才のパターン」をあぶり出したことだったのではないか、ということ。
そのパターンを最もうまくこなせるコンビが、優勝する仕組み。
でも、それは漫才がうまいということになりこそすれ、コンビの実力の全てを計るものさしにはならなかったということ。


それは、いままでのM-1優勝者の、優勝以降の、そこそこブレイクしているが、あいかわらずダウンタウンの対抗馬としては、まったく名乗りをあげていない感じからもわかると思う。
結局、漫才がうまいだけでは紳助→ダウンタウンの次のイスには座れないのだ。


それは、格闘技で言うところの柔道に似ている。
柔道世界一になったところで、世界一強いという意味ではない。
ガチンコの真剣勝負という意味ではなく、柔道というスポーツにおいての世界一なのだ。


今年のM-1を見ていて、そういう意味で、僕の頭には「競技漫才」というフレーズが浮かんだ。
「競技漫才」の一番うまいコンビが毎年決定されるのだ。


しかも、前年度のチャンピオンと戦うわけではないから、毎年、競技漫才の一番うまいコンビが一つずつ排出されていくという仕組み。


ここには、とんでもない新人の入り込む余地はない。
(思えば第一回大会ではテツアンドトモなんていう、漫才ですらないコンビが出ていたのに・・・)
ただ、漫才のうまい芸人が技を競い続けるのだろう。


それはそれでいいと思う。
それはそれでみたいとも思う。


ただ、やはり、それとは別に、時代の旗手を見たい、というのもある。
僕は、その人は、昨今の芸人ブームの間に見れるのではないかと思っていた。
もっと言うと、M-1から出てくるのだと信じて、どきどきしていた。


だが、おそらくそれはM-1からは出てこないのだろう。今年、それを実感した。


今はまだいい。
今はまだいいのだが、
僕と同じようにして、日本国民全員が、そう見限った時に、M-1は終わる気がしている。。。


オタキング、こと岡田斗司夫さんが、おもしろいこと書いてはるので、こちらもチェックしてみてください。

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