デスノート論

最初に断っておくが、「デスノート」はおもしろい。
こんな事を今更言うのもはばかられるのだけど、本当におもしろい。
特に第一部が終わるまでは、最近の少年漫画でもダントツだった。
(第二部はどうかと思うけど・・・)

マンガって本当におもしろいなあと心から思わされる、素晴らしい作品。
エンターティメントとしてみて、最高級。
ただ、今回はそういう話でなくて。

場合によっちゃあ、焚書坑儒の推奨みたいな内容になるんだけど。
要するに、おもしろいことは全面的に認めるとして、今回、僕はじゃあこれって少年誌に載せといていいの?とあえて問いかけてみたいのである。

個人的にはこのマンガが「少年誌」にのっている事に対して、誰も何も言わないのか、という疑問がわいてわいて仕方がない。

この疑問は、言い換えると、例えば自分の子どもがデスノートを読んでいたとして、キラの是非についてどう伝えるのか、という疑問でもある。

キラと、彼が所有するデスノートは、その存在だけで一つの問いかけを読者に強いている。その問いかけとは、単純化すれば、死刑の是非だ。
それも超純粋な。
つまり、冤罪とか、精神鑑定とか、そういう別の倫理の問題をあえて排除した、純粋に人が罪人を殺す、という死刑の本質への是非だ。

人が人を処刑する、という事には二つの意味が存在する。
一つは、被害者の復讐感情への配慮。
もう一つは、抑止力としての処罰。

どちらとも一見すると正義にすら見える。
実際、「デスノート」の世界においてはキラの行為には、賛成する人間も多く描かれる。
実際、犯罪は減ったという記述もある。(現実にキラが存在したとして、犯罪が減るのかどうかはわからないけど)
逆に、反対する人間は、自分が警察だから、という理由でしか否定できない。
それは普遍的倫理観というよりは職業倫理であろう。それでは、ちょっと弱い。
つまり、「デスノート」では、時折見せる、八神月の明らかな悪人面、あれ以外にキラの処刑行為を悪と決めるだけの根拠がないのである。

勿論、こういう描き方だからといって、作者が死刑に賛成しているとは思わない。
いや、しているのかもしれないが、そんな事はこの際関係ない。
ただ、作品のスタンスとして、少なくとも結末を迎えていない現段階では、キラは、一部からは正義の使者として扱われており、作者はそれをきちんと否定できないでいる。
そういうマンガである。

おそらく、(あくまで推測だが)今、デスノートを読んでいる小中学生に、キラの是非を問うたら、ちゃんと否定できる人間は少ないんじゃないだろうか。

まして、今の世の中だ。
変なバカがとち狂って、簡単に人を殺す事件の多い今、もしもキラが本当にいたら、子どもの安全は今よりは守られるかもしれない。
僕らの気分もすっきりするかもしれない。
(色々な事件が起こっていることだけは記憶に新しいのだけど、それらの犯人に実際が死刑執行されたって話はほとんど聞かない。そもそもあの教祖様だってまだのほほんと生きてるんだぜ。)

しかし、本当にそれでいいのだろうか?
そこまでぼおっと読んで、やっと大人は、なんとなく考える。
それでも、理性で考えると、キラを肯定するのはやばいんじゃないか。。。と。
でも、どうして肯定したらやばいんだろ?

キラの存在を是としないのならば。
キラという存在の意味をしっかりと、大人が判断し、子どもに対して自分の見解を述べる必要があると思う。
少なくとも、「デスノート」がジャンプに乗って、表紙を飾ってしまう世の中だ。それを読んでいる大人は、キラをちゃんと否定する義務があるのではないか。
そう、思うのだ。

さて、本題。デスノート論。

デスノート」の提示している問題とは、つまるところ「悪」という存在の問題だと考えている。

ここで、まず絶対に押さえておかなければならないのは、キラ自身は自分を正義だと思っているという事実である。
彼は何も自分の私利私欲のために人を殺しているのではない。
世界の平和のために、人を殺しているのだ。

でも、例えば、先の911テロにおけるアルカイダだって、自分たちは正義だと思って突っ込んだんだろう。
今のブッシュだって、自分たちを正義だと思って、イラクに突っ込んだんだろう。

つまり正義とは、国の数、人の数だけ存在する。
そして、上であげた例からもわかるように基本的に戦争とは、正義が引き起こす代物である。
宗教戦争なんてのはその最たるもの。
すなわち、本質的に絶対的な正義などありえないのだ。
むしろ絶対的な正義というものの存在を仮定した、その瞬間こそ、ファシズムなり、帝国主義なりといったものに陥る瞬間だと言えるだろう。

では、絶対的な悪はどうか。
悪が正義の対義語ならば、絶対的な悪も当然、存在しないと言えるだろう。
だが、実際は違う。
ある人にとっての正義が、ある人にとっての悪になるように、基本的に国によって、人によって、正義と悪はグラディエーションしながら入れ替わり続ける。(劇中におけるキラに対する人々の反応がよい例)
正義と悪は決して対義語ではないのだ。

その前提の上で、だから僕は、あえて言う。
それでも絶対的な悪というものは一つだけ存在する。正義の反対側ではなく、むしろ正義の延長線上に。

それは何か。

人を殺すことだ。

人は、人として社会の中で生きる以上、どんな状況であれ、どんな理由があれ、人を殺すということ、この一点だけは悪なのだと言い切らなければならない。
そう思うのだ。

理由はいくらでも後付できるだろう。
例えば、命は二度と戻らないものだから、とか、自分が死にたくないから、とか。
しかし、そういうのはどれも、説得力は持たないと思う。
なぜなら、そういう理屈は少なくとも刑法第39条に触れるような、異常者には通じないから。
あるいは、そういう理屈をすべて知った上で、それでもあの国は戦争をしかけたから。

だから僕は、結局のところ、この絶対悪の制定は、ルールのようなものだと考えている。
理屈や感情ではなく、みんなの共通理解として、それだけは何があっても悪としましょう、と決定しなくてはならないと思うのだ。
僕らの倫理は、そういう段階に来ていると思うのだ。

そうしなければ、いつまでたっても、誰かの正義のために誰かが死ぬという状況を否定できないから。
誰かの正義のために、誰かが殺され続けるのである。

戦争を起こす国には、起こす国の理屈があり、正義があるのだろう。
(「報復」「抑止力」「自衛」「国益」etc・・・)
犯罪者には犯罪者の理屈があり、もしかしたらそこにも正義があるのかもしれない。
僕にはどちらも理解できない。
いや、どんな理由であっても理解できないわけでもないけれども、じゃあ、どの理由なら理解できるか、という問題ではないと思う。
それこそ、人それぞれだからだ。

そんなそれぞれの「正義」を理解しようとするよりも、それぞれの正義を越えた、絶対的な悪を決める方がシンプルだし、有意義だと思う。
そして、その絶対悪(殺人)だけは、必ず否定するという断固たる態度だけが、世界平和につながると考えている。
世界平和って何か?人が殺されない世界だ。

全ては、人を殺さないという前提で考える時が来ているのではないか。

こう考えて、僕は最近、死刑廃止論者に、(若干いやいやながら)転向した。
正義のための殺人、を否定するためだ。

勿論、自分の考え方を押しつけるつもりはないから、これは提案である。
絶対的な悪、という全人類共通の価値観として、殺人の一点だけは決定事項にしませんか、というささやかな提案である。
悪、という言い方が悪ければ、禁忌とか、禁じ手とか、まあなんでもいいんだけど、とにかくそういうもの。

で、冒頭の問いに戻る。

キラの是非を子どもにどう伝えるか。

「キラは悪。理想とか、結果とか、そういう事は関係なく。彼は殺人犯であるというのは事実。それを肯定するということは、戦争とかまで認めることになるから。そして、そういった悪の上の平和で満足したくないから。」


以上が、僕個人の結論である。
しつこいようだが、僕はデスノートというマンガ自体は好きだ。評価もしている。
だからこそ、そこで描かれる倫理観の危険性、そしてそれが週間単位で子どもに読まれるということの意味を、少なくともマンガを読む大人なら、それぞれ考慮しなければならないと思っている。

青年誌掲載なら、何も思わないんだけどね。


以下、ネタバレ







・・・・そういう意味でも、Lは死んではいけなかった・・・・。(死ぬ回は最高に興奮させられたのは事実だけども)

今の二代目話は、作者も、上で述べたような倫理観への危険を感じてか、「殺人」よりもノートを取り合っての国盗り合戦みたいな感じをフューチャーしてる。でも、それが、おもしろくなくしてるんだよな。。。。