みつお

「私がうまれた時、お父さんは、ほんと、死んじゃう数秒前ってかんじだったらしいの。うん。そう、事故。馬鹿みたいよね。娘が生まれたその日にひき逃げされて。お母さん、何がなんだかわからなかったって言ってた。でも、お父さん、私が生まれるその時までは生きてたんだって。奇跡だってお医者さんは言ってたらしいんだけど。でも、お父さん、もう意識も朦朧とした状態で。看護婦さんが生まれましたよって伝えに来た時も、少しだけ笑うのが精一杯だったって・・・看護婦さんが特別にって私をお父さんのところまで連れていったんだけど、手を握ることもできなかったって。」
婚約者のみつこは、早口でそこまで一気にまくしたてた。珍しく、鼻息が荒い。線を引いたような二重の大きな瞳がくるくると僕を見つめている。
僕らは、来月結婚することを決めている。急な決定だったけど、僕の異動が決まった一週間前に、僕の方からプロポーズをした。今日はそのための戸籍抄本をとりに役場まで来たところだ。五月の日差しが、住民課の脇に大きく切り取られた窓からさんさんと差し込んでいる。平日の午後。係であるらしい中年の女性が戸籍抄本の写しを作成してくれている。
幸せだった。僕らは幸せだった。
彼女は、一息つくと、言葉を続ける。僕は黙って頷く。
 「・・・それで。その・・・私の事を・・男の子だと思いこんでて、名前を付けてくれたの・・・」
 面倒くさそうに、中年女性が出してきてくれた抄本には名前の欄に『中村みつお』とある。みつこではなくみつおだった。性別、男。
 「・・・・・・」
 「それからお父さん、すぐに死んじゃったの。だから、なんとなく、母さんも、この名前をさ、つけないわけにいかなくって・・・・うん。お父さん、男だって思いこんでたから・・遺言みたいなもんだって・・・だから・・その・・戸籍は・・・」
 そう言って、みつこは手を絡めてきた。抄本を封筒に入れ、持ってきたトートバッグに入れる。ごめんね。だまってて。そういう彼女の唇は細かく震えていた。その唇をずっと見てたから、いいよ、そう言うのに数秒かかってしまった。致命的なタイムロスだ。この数秒は1時間の遅刻よりも長い。でも・・・。
でも彼女は繋いだ手をぎゅっとさらに強く握った。だから僕も握り返した。
それは、みつおの手だと言われてみれば、その手は骨っぽい気がした。
 役場を出る。五月の緑色の風が、みつおの髪をふうわりと揺らした。車に乗り込む前に、ドアの影に隠れてみつおにキスをした。
それ以外になにができた?

デスノート論

最初に断っておくが、「デスノート」はおもしろい。
こんな事を今更言うのもはばかられるのだけど、本当におもしろい。
特に第一部が終わるまでは、最近の少年漫画でもダントツだった。
(第二部はどうかと思うけど・・・)

マンガって本当におもしろいなあと心から思わされる、素晴らしい作品。
エンターティメントとしてみて、最高級。
ただ、今回はそういう話でなくて。

場合によっちゃあ、焚書坑儒の推奨みたいな内容になるんだけど。
要するに、おもしろいことは全面的に認めるとして、今回、僕はじゃあこれって少年誌に載せといていいの?とあえて問いかけてみたいのである。

個人的にはこのマンガが「少年誌」にのっている事に対して、誰も何も言わないのか、という疑問がわいてわいて仕方がない。

この疑問は、言い換えると、例えば自分の子どもがデスノートを読んでいたとして、キラの是非についてどう伝えるのか、という疑問でもある。

キラと、彼が所有するデスノートは、その存在だけで一つの問いかけを読者に強いている。その問いかけとは、単純化すれば、死刑の是非だ。
それも超純粋な。
つまり、冤罪とか、精神鑑定とか、そういう別の倫理の問題をあえて排除した、純粋に人が罪人を殺す、という死刑の本質への是非だ。

人が人を処刑する、という事には二つの意味が存在する。
一つは、被害者の復讐感情への配慮。
もう一つは、抑止力としての処罰。

どちらとも一見すると正義にすら見える。
実際、「デスノート」の世界においてはキラの行為には、賛成する人間も多く描かれる。
実際、犯罪は減ったという記述もある。(現実にキラが存在したとして、犯罪が減るのかどうかはわからないけど)
逆に、反対する人間は、自分が警察だから、という理由でしか否定できない。
それは普遍的倫理観というよりは職業倫理であろう。それでは、ちょっと弱い。
つまり、「デスノート」では、時折見せる、八神月の明らかな悪人面、あれ以外にキラの処刑行為を悪と決めるだけの根拠がないのである。

勿論、こういう描き方だからといって、作者が死刑に賛成しているとは思わない。
いや、しているのかもしれないが、そんな事はこの際関係ない。
ただ、作品のスタンスとして、少なくとも結末を迎えていない現段階では、キラは、一部からは正義の使者として扱われており、作者はそれをきちんと否定できないでいる。
そういうマンガである。

おそらく、(あくまで推測だが)今、デスノートを読んでいる小中学生に、キラの是非を問うたら、ちゃんと否定できる人間は少ないんじゃないだろうか。

まして、今の世の中だ。
変なバカがとち狂って、簡単に人を殺す事件の多い今、もしもキラが本当にいたら、子どもの安全は今よりは守られるかもしれない。
僕らの気分もすっきりするかもしれない。
(色々な事件が起こっていることだけは記憶に新しいのだけど、それらの犯人に実際が死刑執行されたって話はほとんど聞かない。そもそもあの教祖様だってまだのほほんと生きてるんだぜ。)

しかし、本当にそれでいいのだろうか?
そこまでぼおっと読んで、やっと大人は、なんとなく考える。
それでも、理性で考えると、キラを肯定するのはやばいんじゃないか。。。と。
でも、どうして肯定したらやばいんだろ?

キラの存在を是としないのならば。
キラという存在の意味をしっかりと、大人が判断し、子どもに対して自分の見解を述べる必要があると思う。
少なくとも、「デスノート」がジャンプに乗って、表紙を飾ってしまう世の中だ。それを読んでいる大人は、キラをちゃんと否定する義務があるのではないか。
そう、思うのだ。

さて、本題。デスノート論。

デスノート」の提示している問題とは、つまるところ「悪」という存在の問題だと考えている。

ここで、まず絶対に押さえておかなければならないのは、キラ自身は自分を正義だと思っているという事実である。
彼は何も自分の私利私欲のために人を殺しているのではない。
世界の平和のために、人を殺しているのだ。

でも、例えば、先の911テロにおけるアルカイダだって、自分たちは正義だと思って突っ込んだんだろう。
今のブッシュだって、自分たちを正義だと思って、イラクに突っ込んだんだろう。

つまり正義とは、国の数、人の数だけ存在する。
そして、上であげた例からもわかるように基本的に戦争とは、正義が引き起こす代物である。
宗教戦争なんてのはその最たるもの。
すなわち、本質的に絶対的な正義などありえないのだ。
むしろ絶対的な正義というものの存在を仮定した、その瞬間こそ、ファシズムなり、帝国主義なりといったものに陥る瞬間だと言えるだろう。

では、絶対的な悪はどうか。
悪が正義の対義語ならば、絶対的な悪も当然、存在しないと言えるだろう。
だが、実際は違う。
ある人にとっての正義が、ある人にとっての悪になるように、基本的に国によって、人によって、正義と悪はグラディエーションしながら入れ替わり続ける。(劇中におけるキラに対する人々の反応がよい例)
正義と悪は決して対義語ではないのだ。

その前提の上で、だから僕は、あえて言う。
それでも絶対的な悪というものは一つだけ存在する。正義の反対側ではなく、むしろ正義の延長線上に。

それは何か。

人を殺すことだ。

人は、人として社会の中で生きる以上、どんな状況であれ、どんな理由があれ、人を殺すということ、この一点だけは悪なのだと言い切らなければならない。
そう思うのだ。

理由はいくらでも後付できるだろう。
例えば、命は二度と戻らないものだから、とか、自分が死にたくないから、とか。
しかし、そういうのはどれも、説得力は持たないと思う。
なぜなら、そういう理屈は少なくとも刑法第39条に触れるような、異常者には通じないから。
あるいは、そういう理屈をすべて知った上で、それでもあの国は戦争をしかけたから。

だから僕は、結局のところ、この絶対悪の制定は、ルールのようなものだと考えている。
理屈や感情ではなく、みんなの共通理解として、それだけは何があっても悪としましょう、と決定しなくてはならないと思うのだ。
僕らの倫理は、そういう段階に来ていると思うのだ。

そうしなければ、いつまでたっても、誰かの正義のために誰かが死ぬという状況を否定できないから。
誰かの正義のために、誰かが殺され続けるのである。

戦争を起こす国には、起こす国の理屈があり、正義があるのだろう。
(「報復」「抑止力」「自衛」「国益」etc・・・)
犯罪者には犯罪者の理屈があり、もしかしたらそこにも正義があるのかもしれない。
僕にはどちらも理解できない。
いや、どんな理由であっても理解できないわけでもないけれども、じゃあ、どの理由なら理解できるか、という問題ではないと思う。
それこそ、人それぞれだからだ。

そんなそれぞれの「正義」を理解しようとするよりも、それぞれの正義を越えた、絶対的な悪を決める方がシンプルだし、有意義だと思う。
そして、その絶対悪(殺人)だけは、必ず否定するという断固たる態度だけが、世界平和につながると考えている。
世界平和って何か?人が殺されない世界だ。

全ては、人を殺さないという前提で考える時が来ているのではないか。

こう考えて、僕は最近、死刑廃止論者に、(若干いやいやながら)転向した。
正義のための殺人、を否定するためだ。

勿論、自分の考え方を押しつけるつもりはないから、これは提案である。
絶対的な悪、という全人類共通の価値観として、殺人の一点だけは決定事項にしませんか、というささやかな提案である。
悪、という言い方が悪ければ、禁忌とか、禁じ手とか、まあなんでもいいんだけど、とにかくそういうもの。

で、冒頭の問いに戻る。

キラの是非を子どもにどう伝えるか。

「キラは悪。理想とか、結果とか、そういう事は関係なく。彼は殺人犯であるというのは事実。それを肯定するということは、戦争とかまで認めることになるから。そして、そういった悪の上の平和で満足したくないから。」


以上が、僕個人の結論である。
しつこいようだが、僕はデスノートというマンガ自体は好きだ。評価もしている。
だからこそ、そこで描かれる倫理観の危険性、そしてそれが週間単位で子どもに読まれるということの意味を、少なくともマンガを読む大人なら、それぞれ考慮しなければならないと思っている。

青年誌掲載なら、何も思わないんだけどね。


以下、ネタバレ







・・・・そういう意味でも、Lは死んではいけなかった・・・・。(死ぬ回は最高に興奮させられたのは事実だけども)

今の二代目話は、作者も、上で述べたような倫理観への危険を感じてか、「殺人」よりもノートを取り合っての国盗り合戦みたいな感じをフューチャーしてる。でも、それが、おもしろくなくしてるんだよな。。。。

衝撃映像

忘れてはいけない。
われわれ一般人が、プライドにうつつを抜かしていたころも、裏ではK-1という大舞台が展開されていたことを。

小川対吉田という、世紀の一戦に固唾をのんでいたころ、K-1ではボビーが曙に押しつぶされるという、ココリコ黄金伝説のような映像が繰り広げられていた。(曙の体重に耐えきったら伝説達成!)

それを初めとしてとにかく今年のKー1はステキな試合がいっぱい!

反逆のカリスマ(笑)魔裂人はなんかみたこともないボクサー相手にローキックで勝つというたいしたカリスマぶりをみせつけてくれたし。

唯一楽しみにしてた山本キッドと須藤元気の試合はなんかすごいはやさで審判が止めてくれたおかげで、二人とも笑顔で握手で終わるというハッピーエンドだったし。

しらない韓国の人が、韓国語でスピーチしてくれたし。

知ってるロックの人が歌歌ってくれたし。

ほんと素晴らしいイベント。

そもそも、そもそも、格闘技のイベントなのに、格闘技を放映しないというロックぶり。 11試合中6試合を放映して終わり。
アーツ、バンナ、ヒース・ヒーリングシュルトホーストらの試合は、結果だけ最後に放映しておしまい。
まさかアーツやホーストが、すでに見限られているとは思わなかった。
それをさしおいて知らない韓国の人や、歌う人を放映したっていうのはやっぱり並の神経じゃできない。

なんて素晴らしい。

そんな素晴らしいイベントの、もっとも素晴らしい瞬間を拾ったのでリンク貼っておきます。

ヒース・ヒーリングvs中尾芳広の試合。
とにかく、見て欲しい。

この試合は、カットされたうえに、何でも反則試合の回収試合なんだってさ。
で、公式サイト見てみたら他の試合では色々選手の試合後のコメントがあるのに、この試合だけないの。
で、テレビではまったく映らなかったんだって。
ね?興味出てくる。くるくる。出てくる。

http://www.zdnet.co.kr/i/microsite/aspirin/blog/k1/k1_1231.wmv


で、見てみたら、ほんと期待以上の衝撃動画。
いやあ、最後の最後まで、ほんとことしのK-1は楽しませてくれたわー(毒)

M-1を見て

今年のM-1は今までで最もレベルが高かった。
腹を抱えて笑った。
笑い転げた。
今、日本で一番おもしろいコンビを決める。そんなことが年末の恒例になったこと、そしてそれを全国民が楽しみにしていること。
全てが、素晴らしい。
素晴らしい。ほんとに。心から、芸人という人種をかっこいいと思う。


しかし。
しかしだ。
今年のM-1において、漫才はある種、完全な袋工事に陥ったのではないか。
そのような疑念が浮かんだ人も多いのではないだろうか。
つまり、ブラックマヨネーズは、果たして本当に今、一番おもしろいコンビなのだろうか、ということ。
要するに、「漫才がうまい芸人」と「おもしろい芸人」というのは必ずしも=では結べなくなっているのではないか、という話。


僕は、別にここでブラックマヨネーズがおもしろくないということを言いたいのではない。
間違いなく、今年のM-1ではブラマヨが一番おもしろかった。

だが、ブラマヨが、じゃあ、ポストダウンタウンになれるか、というとそれは別問題のように思うのである。


そもそも、芸人道おいてゴールがどこか、というのは外野が決める問題ではない。
だから、ブラマヨダウンタウンになれるかどうかなど、関係ないという意見はあるだろう。
だが、あえて考えてみてほしい。
M-1の存在意義を。


結局のところ、僕らがM-1に何を期待していたかと言えば、ヒーローの登場を期待している
のである。
そうでなければ、「一番おもしろいコンビ」をわざわざ、あんなガチンコで決める必要はないのだ。
年末の漫才大会でよいのだ。
みんなで楽しくわっはっは。それでよいはずなのだ。

しかし、そうではなくて、僕らは、芸人がガチンコで勝負する、ということをものすごく楽しんでいる。
まるで格闘技を見るように。
それはつまり、一番強い人間を見たいという心理とおなじだ。
要するに僕らは、お笑いのヒーローを待ち望んでいるのである。


そして今、お笑いにおいて、次のヒーローと言えば、ダウンタウンを凌駕する存在以外にあり得ない。
かつて、ダウンタウン登場において、紳助竜介がきっぱりと引退したように、ダウンタウンを越えた次代の出現というのが、僕らが見たい、最高のストーリーのはずだ。
審査員に紳助と松本が入っているのも、その証明になるだろう。
すでに時代は、紳助、松本、の次の席を用意しているのだ。


さて、改めて今年のM-1である。
今年、決勝に残った3組には、三者ともに共通するネタの作り方が二つある。


一つは、勢いのもっていきかた。
前半、軽いボケを重ねていき、徐々にエンジンをあたためていき最終的に勢いにまかせたボケを連発するというパターン。
審査員の一人、ラサール石井がよく「後半の流れが・・・」とか「さいごあと一歩の伸びが欲しかった」などのコメントをすることからも伺えるように、この流れにのれるかどうかが、一つの審査基準になっている感がある。


もう一つは、つっこみとボケの境目が曖昧になること。
要するに、前半はそれなりにちゃんとつっこんでいたのが、後半になればなるほど、つっこみ自体がボケとなっていくというパターンである。
これは、一つ目のパターンと密接に関係している。
要するに、5分という限られた時間の中で、笑いの数を増やそうと思ったら、ぼけ→つっこみ→ぼけ→つっこみよりも、ぼけ→ぼけ→ぼけ→ぼけの方がはるかに笑いがとれるわけで、後半をそういう形にすることで、審査員の印象点をあげるわけだ。


今年、これがもっともうまくはまったのがブラックマヨネーズだった。
すべてのボケとつっこみが有機的に反応していた。


それに対して、このパターンを読んでいながら(あるいは読み過ぎたから)うまく対応しきれなかったのが麒麟である。
要するに、後半、勢いにのらなければならない、という足かせに無理矢理対応したのが、決勝で見せたあの「勢い」ネタなわけだ。


あの麒麟は痛々しかった。
なぜなら、麒麟はもともと、そのパターンを得意としていたわけではないからだ。
麒麟は本来的には「クールなボケ、川島」と「天然のつっこみ田村」という役割分担になっている。
世間一般ではボケ=天然、つっこみ=クールの方がすわりがいい。
それを逆手にとって後半、いつの間にかボケとつっこみが入れ替わってくる、というのが麒麟の得意パターンだったのだ。
それをあえて、M-1用にチューンナップして、ボケにボケで対応できるようにしたのが、あの決勝における悪口の言い合いというネタだったのではないかと思う。
だが、それは本来の麒麟にとってのベストなネタの作り方ではなかったはずだ。
M-1においては、その、本来の麒麟のパターンでは通用しなかった。
それがわかっていたからこそ、麒麟は従来の、最も得意とするパターンを崩して、勢いにのって両者がぼけるというパターンを作ってきたのだ。
結果、それは報われなかったわけだが・・・

M-1という舞台においては今年ならブラマヨの、あのどんどんヒートアップしていく漫才がベストなのである。
なぜなら、M-1においては、ああいった、笑いの流れのあるパターンの漫才こそがおもしろいとされるのだから。
いつのまにかそういうコンセンサスが出来上がったのである。
この、M-1が始まってからの5年の間に。


何が言いたいか。


結論を言うと、「おもしろいコンビ」を決めるためにつくられたM-1が行ったことは、結果的には、「おもしろいコンビ」を決めるのではなく「おもしろい漫才のパターン」をあぶり出したことだったのではないか、ということ。
そのパターンを最もうまくこなせるコンビが、優勝する仕組み。
でも、それは漫才がうまいということになりこそすれ、コンビの実力の全てを計るものさしにはならなかったということ。


それは、いままでのM-1優勝者の、優勝以降の、そこそこブレイクしているが、あいかわらずダウンタウンの対抗馬としては、まったく名乗りをあげていない感じからもわかると思う。
結局、漫才がうまいだけでは紳助→ダウンタウンの次のイスには座れないのだ。


それは、格闘技で言うところの柔道に似ている。
柔道世界一になったところで、世界一強いという意味ではない。
ガチンコの真剣勝負という意味ではなく、柔道というスポーツにおいての世界一なのだ。


今年のM-1を見ていて、そういう意味で、僕の頭には「競技漫才」というフレーズが浮かんだ。
「競技漫才」の一番うまいコンビが毎年決定されるのだ。


しかも、前年度のチャンピオンと戦うわけではないから、毎年、競技漫才の一番うまいコンビが一つずつ排出されていくという仕組み。


ここには、とんでもない新人の入り込む余地はない。
(思えば第一回大会ではテツアンドトモなんていう、漫才ですらないコンビが出ていたのに・・・)
ただ、漫才のうまい芸人が技を競い続けるのだろう。


それはそれでいいと思う。
それはそれでみたいとも思う。


ただ、やはり、それとは別に、時代の旗手を見たい、というのもある。
僕は、その人は、昨今の芸人ブームの間に見れるのではないかと思っていた。
もっと言うと、M-1から出てくるのだと信じて、どきどきしていた。


だが、おそらくそれはM-1からは出てこないのだろう。今年、それを実感した。


今はまだいい。
今はまだいいのだが、
僕と同じようにして、日本国民全員が、そう見限った時に、M-1は終わる気がしている。。。


オタキング、こと岡田斗司夫さんが、おもしろいこと書いてはるので、こちらもチェックしてみてください。

http://putikuri.way-nifty.com/blog/2005/12/m1_790d.html#trackback

ほそぼそとここでも書いていく そういう決意

全然どうでもいい話なんだけど。

初対面の人には、よく好きな音楽なに?って聴いてしまう
でも、それで話がひろがった試しがない。

グレイとか答えられたら、いじめがいもあるんだけど

たいていは最近だとオレンジレンジとか言われてしまうわけで。
正直、何も思わない。

ただ、なんとなく距離ができるだけ。

じゃあ相手になんて答えてもらいたいんだろうとかちょっと考えて。
それから答えに詰まった。

たとえばいきなりフリッパーズなんて言われたら絶対に友達になれない。
だからといってブランキーとか言われてもちょっとひく気がする。
これらは、なかよくなってから「実は・・・」と打ち明けられたい。
打ち明けられたら、親友になれる気がする。

かといってアズテックカメラとか言われてもなんかわけわからんし。
オアシスって言われたら、同世代としてのシンパシーは感じるけど、なんとなく難しい漢字がする。

僕は今、「何聴くの?」っていう簡単な問いにたいする100%の答えを求めている。

・・・・なんだろ?

こう書いたら、あたるかもしれないらしいよ。

アップルのiMac G5欲しい!

いやあ、ほんと欲しい。欲しすぎる。なぜってあれよ・・・あれ、あれする。あれ。


もらえたらがんがん動画編集する。ほんと、オリジナルのエロビデとか編集する。


・・・・それくらいしか、使い道が思いつかない僕でも参加できるすてきな企画。

当たったら超おもしろい。

夢の話

ウゴウゴルーガみかん星人が出てきた。in my dream。

みかん星人は僕に語りかけてきた。

「自分な、俺の事、みかんで出来てるからみかん星人やと思ってるやろ?」

「はあ」

「ちがうねん。俺は、まだ大人になってない子どもの象徴やねん。」

「はあ?」

「要するにな、大人になったら『完成』するやろ?」

「はあ」

「まだ『完成』してない人・・・・っつう意味で未完成の人・・・つまり未完成人っつう名前なんや。」

「はあ。」

頷いた辺りで目が覚めた。
起きたら昼過ぎで、太陽がさんさんと降り注いでいた。
朝ご飯に甘いパンを食べてバイトの準備をした。

そして僕は26才だった。

それでもきっとまだ、僕も未完成人。