岡村ちゃん

僕のようなDT街道まっしぐらの人間にとって、この世界で一番恥ずかしい言葉は「あいしてる」であり、この世でもっともロックとはほど遠い話が、のろけ話である。
それはもう、トラウマレベルで刷り込まれている、条件反射のようなものであり、自分ではあらがいがたい、生まれた瞬間から童貞神によって与えられたのろいのようなものだ。
だからもし、今、突然強盗があらわれて、ピストル片手に「いまここで『おま○こ』と叫ぶか、彼女とののろけ話をしなければ殺す」と言われたら即座に女性器の名前を叫ぶ。間違いなく叫ぶ。
今、突然神様があらわれて、「今から死ぬとして、最後の一言を『あいしてる』か『おっぱい』、どっちか選びなさい」と言われたら、まちがいなくやわらかい二つの肉のかたまりの名を選ぶ。何の疑問も持たずに選ぶ。

これはもちろん、本当にロックンロールとのろけ話の間には海よりも深い溝があるのだという話ではない。それはすでにジョンレノンがオノヨーコと二人で簡単に否定してくれている。愛とロックは共存する。むしろ癒着している。
また、これまた当然のことだが、「おっぱい」と「あいしてる」、どちらの言葉を口にすべきかという問いなどそもそも成立していない。ましてそれに対して一瞬でもうーんと考える奴がどうかしている。馬鹿なのだ。

わかってはいる。納得もしている。

ではなぜ、僕にはそれらの話ができないのか。答えは明白だ。それは僕が永遠のチェリーボーイ、DT(By みうらじゅん伊集院光)だからである。DTとは、単なる性体験の有無を示すのではない。それは生き様であり、生まれた瞬間に身体からただよい続ける、匂いだ。臭いだ。
もてない人生を歩み続けるのだ。
そしてDTは、あまりにも、もてない期間が長かったために、自分の人生における女性という存在を憎むか、蔑むか、エロい目で見るかしかできなくなってしまっているのだ。だから、愛を語るより下ネタを交わすのがスタンダードというすり込みがなされるのである。
だってそれ以外の対応がわからないんだもの。

で、そんな馬鹿にとって、「ロック」という言葉はあまりにも心地よくそして優しい。
そんな動機でロックを口走るようになった輩は、勿論、同族(負け犬)を求めて集まる。同族あい哀れむ。
集まった細菌は繁殖し、拡散し、はびこる。
DTに囲まれて5年もするころには立派に発酵した、人間失格(とかいてDTロッケンローラーと読む)ができあがる。
そいつらは村をつくる。どこにか?高校のトイレだ。それも、不良を避けて、職員室に近いトイレだ!

その、究極の村社会では、「彼女が欲しい」と赤裸々に切々と訴えることこそ美徳なれど、真剣に恋愛感情をむき出すのは何よりの恥なのである。「やりてー」と下劣に叫ぶことこそロックなれど、自分がどれだけ彼女を大切に扱っているのかなどと語るのは御法度なのだ。ヴァーチャルな彼女(アイドル等)とのバーチャルなデートプランを念入りにたてることこそほめられども、現実世界の彼女とのデートプランなど語ろうものなら、半殺しなのだ。
ふられた話は武勇伝だが、ふった話はとてもじゃないけどできないのだ。

てか、まあ、そもそも中学、高校くらいの段階で現実世界の彼女の話なんてできるやつはDTではない。

では、最大の問題。DTとイケメンをわけるものとは何か。これは考えるまもなく。結局のところコンプレックス以外の何者でもないわけで。ルックスや性格、趣味嗜好等、様々な種類のそれが複雑に絡み合ってはいるのだけれど、DTは間違いなくそれを抱えている。そして、そんな奴らが好むロックってのはは、まず間違いなくそれを原動力にした音楽であり、映画であり、小説やマンガなのだ。


前置きが長すぎた。
が、やっと本題。
ここに、一人の例外がいる。例外の天才がいる。それが岡村靖之様だ。
彼は間違いなくDTだ。いくら、天才であろうが、いくらモテた時期があろうが、彼はDTだ。それも真性のDTだ。
でなかったらあんなねちっこい歌を歌えるはずがない。あんなコンプレックスの固まりな歌で、さも悩ましげに踊れるはずがないのだ。

「苦しくて悲しくてつらいことばかりならば あきらめてかまわない 大事なことはそんなんじゃない」(あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう)

ああ なんてDTくさい歌詞なんだろう。
どう考えても運動部でレギュラーをとれる奴の歌う歌ではない。そしてこの秀逸なタイトル!ここに100%表現されてしまっている、思春期特有のただ、無駄に妄想だけが広がっていく感じ。そう、これこそがDTワールドだ。ワールドオブDTだ。

そもそも、ぶっちゃけ、岡村ちゃんは、そないにルックスに恵まれてるとは言い難い。特に近年の激太り以降は切なすぎる。
むしろアウトだ。
てか、そもそも何かしらのコンプレックスなしに、あの激太りはありえない。

でも、岡村ちゃんは歌うのだ。脂肪をゆらして。切実に。精一杯。

「君がだいすき あの海辺よりもだいすき 甘いチョコよりも だいすき」(だいすき)と。

これはなんつうか、非常に凄まじい。尾崎豊が「I loye you」って言い切れてしまうのとは全然意味が違う。もちろん藤井フミヤが「TRUE LOVE」って言えてしまうのとは180℃違う。
なぜなら、奴らは明らかにモテたからだ。勿論、悩んでいない訳がない。コンプレックスだって人しれず抱えていただろう。だがはっきりいおう。奴らはその悩み方すら、もてもてオーラを導く。
わかりにくければ、永遠の貴公子、飛鳥涼(from Chage and Aska)が「言葉は心をこえない」なんつって余裕ぶっこいてるのに比べてみればよい。「きみがだいすき」と叫び、踊る岡村靖幸が、どれだけなりふりかまってないかがわかるだろう。

だがそのなりふりかまわなさや必死さは胸を打つ。

まやかしの、傷の舐めあいのDT村ロックに安住しない、というよりむしろそれに対してのカウンターとして、岡村ちゃんは必死なラブソングを(自分も含めた)DT達にむけて歌うのだ。
そして、「必死さ」とか「切実さ」以外にDTが女の子とコミュニケートする方法は、この世界には残されていないのである。

だから、岡村ちゃんはばりばりのDTのくせに・・・いや、むしろ岡村ちゃんがDTそのものであるからこそ、その暑苦しい歌声は僕たちDT達の、汚れきった胸を焦がす。黒こげにしてしまう。
そして、妄想内の彼女にはホントはでれでれなくせに、それを必死で隠す、あるいは笑いでごまかす僕たちに、本当は「あいしてる」って言ってしまえるDTの方がどれだけロックンロールなのかを気付かせるのだ。

僕が岡村靖幸の歌を聴いて、赤面ものに恥ずかしい思いをしながらも、なぜか聴く度に身が引き締まる思いがしてしまうのは、たぶんそういうことなんだろう。
そして、僕が岡村ちゃんに、同じDTであるという一点に猛烈なシンパシーを感じながらも、最終的に、絶対的な敗北感と猛烈なあこがれを抱いてしまうのも、原因はそういうところなのだろう。

だから僕は、岡村靖幸を簡単に否定してしまえるようなDTは信用しない。「家庭教師」を聴いて、何も思えないDTとは分かり合えない。同じDTでも、そこには万里の長城がたちはだかっているのだ。

そう、信じているのである。